「医療機関へのフリーアクセス」…「皆国民保険医療制度」と共に日本の医療が世界で優れている点です。
「どこでも同じサービス」は、一見耳触りが良い言葉ですが、言いかえれば「選択肢はなし」です。患者さんは、性格的個性も身体的個性も違いますし、「同じ病名」に診断されてもその顛末は人それぞれです。同じ「癌」・同じ「ステージ」に分類され、同じ「標準的治療」を受けても必ず同じ期間生存するものでもありません(ある幅をもっての傾向にはくくれますが)。
最近では、「癌治療」は、かなり画一的でやたらと「エビデンス」が語られ「これこれこう」は「こういう治療」と全国的に共通化(マニュアルやガイドラインの制定が)されています。しかしながら、さまざまある病気の診療自体に関しては、まだまだ「医師のさじ加減」的要素が残っているように思います(「さじ加減)とは、「手玉に取る」ということではありません。知識や経験からその患者にあった「いい塩梅にする」ことです)。
医療者は、患者の良きパイロット・サポーターであって同情者や不満のはけ口ではありません。最近の「我慢しなくてよい」とのキャッチフレーズの製薬会社のコマーシャルに代表されるよう「頑張らなくてよい」的風潮がありますが、「内にため込む」必要はないということであって「他者に丸投げする」とか「あたり散らして良い」ということではありません。
患者を叱ってもよいが患者に怒ってはいけないと年配の医師が言っていたのを思い出します。病気とはそもそも楽しいものではありません。人が負う「生老病死」という運命にあって一生避けられるものでもありません。そこには、人生の戦いが有るわけです。時には優しく時には厳しくが診療には必要となります。
ただ、患者との相性やタイミングの問題など有りますから、救急でもない限りフリーアクセスはあってしかるべきでしょう(ドクターショッピングせよと言っているのではありません)。
医療は、幅を持って標準的な検査手法や治療手法があり、医師はその許される範囲内で自分の立ち位置を持っています。代替医療や高度な先進医療に関する考え方も医師によってまた違います。たまに「○○病院でやっている代替医療をここで受けたい」みたいな人もいますが、それは無理です。施設の要件もありますが、プロは自分の支持するやり方(学術的技術的拠り所)が有ります。行う診断や治療方法は自分が学び納得し経験し習得してきたものか、広く知られたマニュアルやガイドラインに従った範囲でしかできません。老舗の料理店の調理師が食材や道具・調理法にこだわり、奇をてらわないのと同じでよそがやっているから直ぐ宗旨替えということはないのです。ただ、食べに行く店を選ぶのは自由ですし、時によって違うものを食べに行くのは可能なのに似ています。
2015-07-14 21:01:00
日常診療,患者,祖語